2010年4月29日木曜日

龍馬暗殺調書

 事件日時 慶応3年(1867年)11月15日 推定20時~22時
 事件場所 京都河原町蛸薬師下ル近江屋2階で
 被害者  坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉(以上三名が何者かの手により死亡)
 被疑者  京都見廻組(今井信郎、渡辺篤の告白による)
      ほか、新撰組、紀州藩、土佐藩、薩摩藩の関係者の関与など諸説がある。

 この事件の背景
 幕末、佐幕派と倒幕派の政治闘争が、頂点に達したときに起きた出来事だった。徳川慶喜は、大政奉還によって将軍職を辞したものの、莫大な領地を所有しており、徳川家を中心とした二院制議会の設立を構想していた。一方、公家の岩倉具視、薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩の木戸貫治は、王政復古を発して将軍職を廃止し、同時に辞官納地を徳川家に迫ろうと考えていた。こうした状況の中、事件は起こった。
 龍馬が京都に入ったのは、10月9日である。龍馬は、はじめ河原町三条にある材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿したが、危険が迫っていることを感じ、近江屋新助方へと移した。近江屋は、河原町通り蛸薬師下ルにあった土佐藩御用達の醤油屋である。
 幕吏の存在に気づいた龍馬は、安全のため土佐藩邸に入ることを望んでいた。だが、これに藩内の保守派たちが反対し、藩邸側はこれを拒んだ。脱藩罪を許されたとはいえ、かつて国法を犯した者を受け入れる雰囲気は、土佐藩になかったのである。
 そこで、薩摩藩士の吉井幸輔が、龍馬を薩摩藩邸に迎え入れようとした。しかし、龍馬は母藩への遠慮からこれを断り、また、探していた松山藩関係の屋敷にも入ることもかなわず、藩邸に近い近江屋に留まることになった。
 
 事件の謎
○実行犯は?
 事件当初は、実行犯として有力視されたのは新撰組であった。現場に残された遺留品(新撰組隊員の刀の鞘、ゲタなど)から新撰組の関与が疑われた。また、龍馬と係争していた紀州藩の関与も疑われ、事件後、龍馬のかたき討ちとして土佐藩の陸奥陽之助らが紀州藩士を急襲する事件も起きた。しかし、後に自分が実行犯であると元見廻隊員の今井信夫と渡辺篤が共に(時期は別々に)証言したため、実行犯は(今井らの証言を元に)佐々木只三郎を頭とした複数(7~8名)の見廻組隊員の犯行であることが定説となっている。
○黒幕は?
 仮に見廻組を実行犯とした場合、その背後で命令指揮したのは誰であるかが、謎とされている。(京都)見廻組は京都守護職の指揮下にある警邏隊であり、幕府直轄管理化の組織である。ところが、幕府の中枢は、当時、大政奉還という無欠革命(幕府の存続も意図した)に動いた龍馬を擁護する立場を取っていた。「龍馬を捕らえるべからず」という命令も出ていたという。では、誰が見廻組を動かしたのか?
○複数の黒幕説
 龍馬の暗殺に関しては、その背後に複数の黒幕が存在したと囁かれている。
 まず、強硬な倒幕に動いていた薩摩・長州藩。大政奉還後の動き(将軍がそのまま新体制に収まる案もあった)を阻止したいとして、その中核にいた龍馬を消そうとしていた?
 同じ主旨で尊王攘夷派も龍馬を消そうとしていた?
 さらには、土佐藩の一部にも反龍馬の動きがあり、特に以前より龍馬の動きを煙たがっていた後藤象次郎には暗殺の動機があり、また岩崎弥太郎との謀議説(紀州藩よりの賠償金を受領するため?)もある。
 ほかにも、龍馬がフリーメーソン(秘密結社)の一員であり、その背後勢力から抹殺されたという異端説まで諸説が流布している。